2021.06.11 追記
前回のブログで長くなるので省略したことがあります。それは、私が工場実習に行った当時は新日鉄にとっては決して良い時代ではなく、大分製鉄所でも高炉が1基止まり数百人の従業員が自宅待機を余儀なくされていました。スタッフは毎日のように始業の1時間以上前から会議を繰り返していて、その分の時間外手当ては支給されなかったそうです。独身寮に帰ると、ちょうど暑い夏で部屋のドアを開けたままの人も結構いて、お風呂や食事の行き帰りに廊下から、机に向かって勉強している若手社員の姿があちこちで見られました。別の工場のスタッフだったかもしれません。この光景はとても強く印象に残っています。皆懸命に働いていました。アルミ缶が主流となっていく時代でしたが、” スチール缶を飲みましょう “と書かれた大きな横断幕が製鉄所の入場門の上に掲げられていました。当時はサントリーだけがスチール缶でビールを販売していました。寮に置いているビールはサントリー製だけでした。新日鉄の製品がスチール缶に使われていたのでしょう。様々な企業努力も実りその後は業績も回復して今に至っています。続いては阿座上塾時代のその後ですが、曽根校での1年目に社内のソフトボール大会が開かれました。よく飛ぶ私の打球が社長の目に留まったのでしょうか、その後すぐにゴルフ部が作られ私が部長を命じられました。よく知っている先生や仲の良い先生を中心に電話をしてゴルフ部に勧誘しました。社長も含めて部員は9人で、毎月一回程度ラウンドしました。社長から30万円もするアイアンセットをいただきました。エッジが鋭く土を削っていくタイプなので” 私には肩に負担が来て打てないから ”ということでした。ゴルフセットは私のものも含めて常に4つ私の車のトランクにバッグに入れて積んでいました。社長はゴルフ部でのラウンドには同行しませんでしたが、よく私と二人でラウンドしてくれました。覚えたての私にとっては貴重な機会でした。直接聞いたことはないのですが多分私のボールを遠くに飛ばすところが一緒に回って楽しかったのだと思います。私は大学での入学直後の体力測定で当時人気のプロレスラーだったタイガーマスクと同じ240キロの背筋力がありました。高校まで部活はしていないので子供の頃の筍堀りや背負って運ぶ作業などが体を鍛えたのだと思います。野球もゴルフも打てばよく飛びました。このころ阿座上塾内では大きな動きがありました。実力テストを塾内で作成するようになったのです。教務部長のS先生が主導して中3生は毎月、中1,2生と小学生は年4~5回実施しました。塾内偏差値ではなくフクトなどと同じく県内の全員が受験したと想定しての偏差値を算出していました。私は理科主任を受け持ちました。数学主任は守恒校のK室長(この守恒校は毎年1教室で30人以上の小倉高校合格者を輩出していました)でその上の理系部長が沼校のM室長で文系部長が霧ヶ丘校のM室長でした。私が学生時代にお世話になった霧ヶ丘校で教えていた、あるいはよくやってきていた先生たちが中心になっていました。1年間毎月の実力テストの理科の作問は結構大変でした。締め切りに追われる日々でした。60点満点の30点辺りに平均点が来て、分布曲線もきれいなものになるように意識してバランスをとることに気を付けました。もちろん問題はオリジナルでなければいけません。塾で使うテキストも自分たちで作りました。私はもう一人のゴルフ部所属の先生と二人で理科を受け持ちました。最後の仕上げは全員で旅館に泊まりこんで行いました。このようなことを経験して先生たちは更に力をつけていったのだと思います。毎月の全ての専任の先生が参加しての職員会議で10校すべての教室別、クラス別、科目別、総合、のテストの平均点の集計結果が一覧表の形で配られ皆が目を通しますが、この結果を意識して先生同士も競い合って向上していきました。一度冬のテストで曽根校のAクラス(曽根校はA,B,Cの3クラス制でした)が沼校のSクラス(S,A,B,Cのクラス分けでした)を数学の平均点で追い越したことがありましたが、後で理系部長に怒られました。その後私は沼校に赴任しました。以前のブログで書いた1年間生徒が無遅刻無欠席だったのがこの曽根校時代でのことです。毎回、身につけさせたいはっきりとした目的をもって考えられる限りのベストの授業を追及、実践していました。出席に対する強制はなく、遅れても休んでも何もありませんでしたが、生徒は聞き逃すまいとしていたのだと思います。二度同じ個所の授業はしないですから。生徒は受けたい、親は受けさせたい、そのような授業を毎回できていたと思います。数学と理科を鍛え、伸ばす塾は好評で生徒もよく集まりました。阿座上社長のおおらかな細かい事の口出しは一切せず人に任せきる人柄が大きく影響していたと思います。ある程度采配が揮えるので看板は阿座上塾ですがそれぞれの教室は教室長のカラーが色濃く出ます。今から10年近く前に阿座上社長は退任され、今では他社が経営している状態です。当時の中心にいたメンバーはもういません。塾の経営の難しさは先生の給料を上げられないことです。人事評価の難しさもあります。5年後に採用された人の方が初任給はその時の社会の平均レベルに設定されるので良い給料がもらえたりします。ある時、他塾から良い話をいただき、私は塾を移りました。しかし今でも阿座上社長のことを私を育てていただいた恩人だと思っています。奇しくも新日鉄大分の工場長、指導官、阿座上社長ともに血液型はB型です。良い方々と出会えました。当塾で使用している” すらら ”の長所は①プロフェッショナルな講義を理解できるまで繰り返して聞けること②1問ごとに見直し、解き直しができること③解けるようになったら終了するドリル 大まかにこの3点が特徴です。1問ごとに狙いを持った意味のある問題を解くことになるので確実に仕上がります。ドリルはやるたびに問題が変わります。唯一無二の驚くべき内容です。塾を開くにあたって私には二通りの選択肢がありました。講師にお願いするのではなく、こちらを選んだ理由がそこにあります。さらに私が指導に加わる二段構えの指導体制が当塾の” 売り ”です。今でこそAIはあらゆる分野で普及して生活にも溶け込んでいますが、5年前はまだよくは理解されていませんでした。人の力では越えられないところを超えていく。どのような教材も使い方次第で結果は大きく変わりますが、5年間の付き合いで” すらら “とは阿吽の呼吸に近く、私が教えている状態と近いものになっています。さらに改善を重ねて預かった生徒全員を伸ばせるように取り組んでいきます。