2021.04.15 6年目を迎えます

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2021.04.15 6年目を迎えます

年度も新しくなり、当塾は6年目に入りました。私を知ってくれている人は皆無に等しいこの地に塾を開いて丸5年、初年度から多くの保護者、生徒さんとの貴重な出会いに支えられて今年を迎えることができました。私の塾でのキャリアは大学生の時から始まります。当時は個別塾はまだ普及しておらず、集団塾か家庭教師が勉強する手段として選ばれていました。私も教える場として甥や姪や希望する人に家庭教師を、いくつかの塾で講師を、それぞれアルバイトとして働き、収入を得ていました。当時の国立大学の学費は半年9万円ずつ納める形式で年間18万円でした。自宅通学でしたので月々それほど多くの収入が必要な状況でもありません。これらのアルバイトで十分でした。高校生の時、私は関西圏のある大学の工学部への進学を志望していて、現役ではまだ合格できるまでの仕上がりでなかったため、浪人するつもりでいました。九州工大に合格できる力があればそれを認めてくれるとの母親の言葉もあり、九工大を受験しました。翌年からは共通一次試験の社会で倫理社会と政治経済の同時選択ができなくなるため、翌年用に倫社とあまり勉強していなかった日本史で受験をして日本史でこけてしまいました。しかしなんとか合格できましたが、大学入試などには全く疎い母親は現実としてよく理解できなかったのでしょう。それから母親に3日3晩泣かれ九工大への進学を頼み込まれました。いろいろな人からも祝福と進学を勧める電話がかかってきました。その時、怒ると怖かった母親の泣く姿を生まれて初めて見ました。兼業農家の母子家庭で予備校に行くお金など当然ありません。予備校の年間授業料は国立大学の学費の3倍位しました。浪人するとすれば、当然自宅で勉強する自宅浪人のスタイルになります。受験勉強は高校に行かなくてよくなってからの時期、1日14時間くらいは勉強できていたのでこの感じで続ければ行けるかなとも思いましたが、いろいろと迷い悩んだ結果、今現実にある合格を選ぶことにしました。しかし自分としては志望する学科ではなかったこともあり、完全にはまだ自分自身で納得できておらず、1年間大学の寮に入ることにしました。この1年間は今から振り返ってもとても楽しく、貴重な時間でした。様々なことにチャレンジしました。統一教会の実態を知るべく通ったこともあります。奥が深くて楽しい ”明專トランプ” もこの時に覚えました。定期的に開催される明トラ大会は朝まで続きました。トランプゲームの最高傑作ともいえるこのトランプは対面同士が味方の4人で競う頭脳戦です。(九工大の前身は明治専門学校という私学で ”数学ができる者は何でもできる” という考えから入試科目は数学1科目のみで2日間にわたって行うという個性的なもので全国から数学に自信のある学生が集っていたそうです。教員の数学力を上回る学生もいたと授業で聞いたことがあります。明治学園はその教職員の子供たちを教育するために建てられた学校です。)しかしその後、九州縦貫道路の建設に我が家の土地も取られ、そこそこのお金が入ってくることとなり、なんとも複雑な心境でした。さて、私が仮4年生の時、阿座上塾で数学と英語の講師として働いていました。霧ヶ丘校のS,A,B1,B2とある中3生の一番下のB2クラスを受け持っていました。1番下ながら46人程のクラスの平均偏差値は50程度あり、中学校の上位者も所属していました。当時、塾全体で小倉高校に毎年100人以上合格していく優秀な塾でした。その中でも霧ヶ丘校は中核をなす存在でした。(守恒校、沼校との3校が3本柱でした。)学生の講師は私だけでした。もともと阿座上塾の前身は高坊進学塾という阿座上憲美社長が起こしたもので、高坊が原点です。霧ヶ丘のすぐ近くです。教室長のM先生の指導の下、この霧ヶ丘校の校風が素晴らしく、アカデミックで先生同士の風通しの良い校風でした。沼、守恒の室長も良く話に来ていました。いろいろ塾は経験しましたが初めて感じるもので、私が思う理想の塾を具現化していました。どうやって生徒の学力を伸ばすか、そして合格実績を残していくか、を常に考え実践していく先生達でした。私の心は奪われ、すすむ道は決まりました。ちょうど年度替わりの時期でしたが隣の席のU先生に阿座上社長への私の採用の意志の打診をしていただきました。” 是非入社してください “とのことで大学へ退学届を出し、阿座上塾に入社しました。入社1年目は城野校の副室長としてM室長(霧ヶ丘のM先生とは別人です)の下で教室運営と生徒指導を学びました。今も昔も理科講師は人材難で私は数学と理科を教えることになりました。理科は物理、化学は得意でしたが、生物、地学は教えるためにそれなりの勉強が必要でした。ほぼゼロ(高校時代の授業が最後)のような状態からの勉強は教えるうえでとても役に立ちました。生徒の身になってわかりやすく教えようと工夫もしました。その結果当時は物理、化学よりも生物、地学の方が教えるのは上手だったと思います。何事も苦労はするべきものです。入社2年目は曽根校の教室長に赴任して、数学、理科の授業を受け持ちながら、教室運営を任されました。50人ほどだった生徒数も150人近くに増え、小倉高校にも10人近く合格するようになりました。当時は日曜のみの休みでしたが秋からは毎週中3生の特別授業や保護者会を開いて年末まで日曜の休みはとりませんでした。会社に届けを出せばそれなりの日当はもらえたのですが、請求は出したことがなかったです。自分としては独身でもあり、お金にそれほど執着はなかったですね。やりがいすなわち生き甲斐を求めてのものでした。続きはまた後日書きます。すべての出会いはご縁あってのことだと思います。私がお役に立てるような方との出会いをお待ちしています。今年度もよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

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